昭和49年7月18日 月例祭の御教話 【入力者:五徳】
(途中から始まる)
言うなら、御神縁を頂いたのが初めてで、そして、五年十年、又は、二十年というように信心を続けておられるうちに、それぞれに、ほんとにあの、苦しかった時代のことを思うと、昔の夢のようであるというほどしに、おかげを受けておる人が、合楽にはたくさんおるということでございます。
ところが信心をして、おかげを頂いてまいりますと、それが、何とはなしに当たり前のようになって、そして、いくら頂いても、いくら頂いても、その頂いておるそのおかげが、あー、当たり前のように思えたり、または、ね、まだそれでも頂き足らんといったような気持ちで、有り難いという心が出てないという事実をね、お互いの心の中に感じなければいけません。
最近、合楽で言われておる、ね、合楽運動を自分の心の中に、自分の家庭に、ね、言うなら、真善美のおかげを現して行こうというおかげを、を、いうことを、今、繰り返し頂いておりますけれども、考えてみると、自分の家は、真善美のおかげが、もう大体足ろうとるたいというようにです、おかげで健康でお参りもでけておるし、ね、そういう(?裏地ではあっても)、ふんなら、病気を( ? )滞りがなく、内容にお繰り合わせを頂いておるし、ね、なるほど、おー、争いのない世界、の顕現ということを頂くが、争いがないわけではない。
親子で、なにかと家の問題も起こってくるし、夫婦でなにか、嫌な事もないではないけれども、そんなら金光様にお参りをしてとか、親先生はどげん仰るか、ということで、解決しておるとすると、もうそれも、もう、大体なくなっておると。もう合楽の言うならば、小型を銘々の家庭に頂いておるという、ま、五年十年と信心が続いておるほどしの人ならば、皆頂いておるということです。
してみると、ね、うれしかった事をもう、昔の夢のようにおかげを頂いておる事実を、私どもは、事実として実感しきらないところから、おかげが(?反始繁盛)になったり、おかげが枯れたり、死んだりしておるから、おかげが育たないということになってくる。
おかげが頂きたい、おかげを頂きたいと言うて、どうしておかげが育たんだろうか。おんなしところを堂々回り。例えば、千円なら千円のその日暮から一個、二千円のその日暮しならない。その千円のその日暮しができるということに、私どもが、ね、おかげを頂きたらんような物思うたり、それがいつも当たり前のようになってきておるところから、そういう事になっておるのじゃないかというふうに思う。
信心というのはね、もう結局、ね、有り難いという心が、いよいよ広がって行く、しかも生き生きと、だからおかげが成長して、おかげが育っていく。
ねぇ、例えばもう、丁度、お祭りが始まろうというところへ、福岡から電話がかかった。
昨日、初めて親子三人で、西陣( ? )というところから参ってきた。
(録音が悪くて聞き取れない)
祭場一体に( ? )ぜんぜん縁談の話がない。だから、売れそこのうたからと言うて、今日( ? )ちゃんと( ? )と言うて、私の家の娘の話しをさしてもらいました。
したらもう、そこで、親先生に大笑いしちゃって、はぁほんとに(?例を)、お前はそこのとこたい、これどころじゃなか。と言うて、私が気をもんどるからおかげにならんのです。ちゃんと神様のおかげがおるから、もうとにかく、早速、御用( ? )お願いするからね、と言うて、ま、ちょうど、高橋さんが昼の御祈念の後に、黒板の掲示をなさった、書いとられましたから、ちょうどあちらまで、乗せて行ってもらいなさいと言ってから、早う乗せて行ってもらい、ね。
まぁいろいろと、合楽の話を、高橋さんから車の中で、いろいろまぁPRを受けられたわけです。最近PRと言えばね、もうとにかく、宣伝という言葉では当てはまらないように思ったけども、やっぱり宣伝。もうほんとにね、今の、今の合楽でおかげを受けておる事実、また、現われておる事実。皆さんがおかげを受けて、それこそ、苦しいこと、難儀なことは、まぁ昔の夢のようになったという事実をはっきり頂いて、それを私は、宣伝していかなければいけない。
宣伝と言うと、それこそ、能書きのごとある、薬の能書きのようにとこう申しますけれども、聞いても聞かんでも、一応はずらーっとこうなる、言うてあるいうもんではなくて、ね、自分がおかげを頂いておる事実、合楽でおかげが現れておるその事実だけを言うてもまだ言い足らんほどしに、合楽で今おかげを受けております。
そのことを宣伝するということがです、ね、いよいよ、和賀心時代を育てていくところの運動委員にならせて頂いとることなのですから、これは皆さん、あの黙って治めるということと、この宣伝をするということは、大変であります。ね。
もうだま、合楽では、黙って治める、黙って治めるですから、もう言わんで言わん、もう言わずに言わずねという修行をしてますけれども、この有り難いおかげの宣伝だけは、もう一つ、銘々が宣伝委員になったと思うて、神様へのお礼と思うて、宣伝しとかにゃいけません。
こんなことがありました。四、五日前、妹が、私がお相伴しておるころに、大変お世話になったお得意さんで、えー、今、いろんな難儀なところを通っておられる。何十年ぶりに、椛目のほうへ見られて、そして、えーその、(?保険の大工)をしておられる。
だから、是非ほへ、保険であってくれないかということであった。ところが、自分のほうは、もう( ? )それで、準備品がないから、もう大体保険ということは、合楽では、もう全然、保険ということはつかない。じゃなくて、それはもう、おー、事実ね、保険というものは、いうならば、火事の焼ける、焼ける、焼けた時のことを(?おもんば)かったり、または、えーの、まず不幸なことが遭った時ことのためにある。そういうふうな悪いことを言うて、待つようなことはいけないというのが、主義ですから、それを知ってるわけです、妹が。だから、けれども、あなたの場合は、大変、言わばあれだったんですから、お世話になっておったことでもありますから、ね、あの、合楽に来て、その話をしてもらいましょうと。まぁ一番小さいんだけでも、一つ、ちょ、うん、ん、んー、書ききってもらうように致しましょうと。
と言うて、お約束してきたらしい。まそれだけでも、私申しますから、みんなもかたらせて頂いて、頂けばよいと言うておりましたが、若先生の(?)、若先生からお金をもろうてから、自分方へ払う。いろんな問題が全然問題じゃなかったんです。ところが神様がね、どうしてここへ連れてこなかったかということでしたよ。
なぜかと言うとね、なるほど、お金も払うのもここでよいけれどもね、合楽の、言うならば、このおかげを頂いておる事実、合楽とはこういうことなんだ。極楽とは、こういうふうに( ? )を言うのだ。
信心すれば、誰でも頂かれるのだと、今その、私が昔知っておった人がです、難儀をしておるとするなら、その難儀な人にです、ね、保険を語る、語るけれども、その時に、合楽での、いわゆる宣伝をさして頂いて、いてもろうて、信心にでも、なるならんは別として宣伝しておく必要があるんだと。
それぞれ、保険の会社にまた戻ったら、合楽の金光様に(?くらって)もろうたが、ほんとに極楽で、ああいうことを極楽と言うのであろうと、そこから、また宣伝してくれるじゃないかと。
ほいでね、( ? )宗教の時には、必ず連れてこいというようなことで、今までかつてそんなこと言ったことがなかった。けれども( ? )言うなじゃない、いわゆる、宣伝に値するだけのおかげを、合楽で受けておるということが、これを見て下さいというものを頂いておるということが、だから、それを例えばです、いうならば、広告、チラシを配ってでも、宣伝してでもよいくらいに、今合楽でおかげを受けておるということ。それは、合楽にたくさんな人のお参りがあるようにというような、ケチな考えではなく、ほんとに、銘々の心の中に、銘々の家庭に、ね、いうならば、合楽を現していけれるようなおかげを頂く。いうならば、神様の願いが、いよいよ成就していくことのための宣伝なのです。
そんなわけで、まぁ、いうならば、車のなかで、高橋さんは、その初めて参って来た親子三人の方達に、PRをして帰られて、それからわざわざ、ご主人までも来られたという、おく、わ、お家まで送っていかれたという話でした。
まぁ、合楽のご信者さんは、親切なと、片一方は、津山と西陣ですからね、高校でて。それでも、( ? )こっち行かれた。それも、やはり、PRしとかなければならんからと、高橋さんが言うておられますけど、それが今では、先ほど、おー、わた、ご、ご、御祈念出てこうと、あの、してきたところへ、電話があった。
それで私に( ? )、私に、今ちょうど電話に出られんから、話聞いとけ、それで私が聞きましたところが、昨日お願いしました、娘に縁談の話がありました。
ね、そりゃもう、親先生にお伺いせんでも、話はどんどん進められていいですよ、と言うて言うた、とこう言う。また、事実そうですからね。
昨日は、ここの久保山さんという、あの、方が、毎日参って来ました。娘さんが、えー、おか、ちなみに、いー( ? )お孫さんが、小学校の何年生、それが不思議な( ? )。もう昼は、だいたい学校に行くし、それから、まぁ、あーその、交えてかは知らんけども、遊んだりしとるけども、夜ともなると、もう頭の芯が痛い、頭の芯が痛い、と言うて、一家中のものを寝せない。うんー、いろんな薬を飲ませるけど、ようならん。
そんなら、今日私が、金光様にお願いしてやろうと言うて、おばあちゃんがお願いされた。その晩から、嘘みたいに止まって休み、休まれた。ね。
例えば、何とはなしに、そういうです、神様がもう、宣伝の材料に使われるようなお話、と言うかおかげを、が、大変、だって初めてお、
ところが、やっぱいろいろ、ね、あのー、うんー、(?仲が良かったやない)。
(?夫婦)合楽教団の中村さんが、お参りをしてきてから、「もう親先生、今日は悲しかった」と言う。何でそげん悲しいことじゃったんですか。そしたら、信心のない人がやってきてから、「中村さん、あんた金光様、金光様、ていって参りよるがね、あんた合楽の金光様、あんた病気をつけたり、あ、とったり、せなされんげなやんね。あんた病気をつけられたらどうすんの」っち言ってから、まぁ注意しにきてくれてた、というわけです。
そして思うたのが、ほんと今の合楽では、それこそ、ね、第一貧乏のない世界、争いのない世界、病気、(?こんげつ)の世界、いわゆる病気のない世界、そういう世界を現していこうと言うて、親先生は毎日仰っておられると同時に、五年十年と信心が続いておるほどしの人ならば、先ず自分方に薬箱がなくなっておる。
今までは、随分一年にいくらいくらお医者の、言わば治療費を払うておったのが、一銭も払わんで済むようになったというほどしに、皆さんがおかげを頂いてござるといい、ね、まぁどういうことをいう人があるじゃろうかと、悲しゅうなったと言うてこらしゃ( ? )。
ね、そのことを私、お取次ぎさして頂きよりましたら、あの御芝居で、あの、おー、★(?与三郎)なんかが、こう( ? )宝冠をしてますね、あの姿を頂くんですよ。分からんから、言ってるんです。だから、そこを、その宝冠を取れば分かることなんだけれども、やっぱりね、そういう事に惑わされた( ? )お参りすると思いよったばってん、じゃ、病気つけらるんなら、どんこうされんと言うて、( ? )ごとあるかもしれんけれども、そんなら病気を取ったり外したりできるような神様なら( ? )ばってん、やっぱ対した神様じゃったと私は思うんです。ね。
まぁそういう、そのお互いの信心を進めていく上ににおいては、ね、様々なところを通りましょう。今も、こちらへ出て来る時に、楽長の田中さんが、もう今日は、もう身体が悪くて、悪くて、もうほんとに、ご無礼しようかと言うごとあったけれども、神様の御月次祭だからと思うて、一生懸命でお引き寄せ頂きましたら、楽を始めだしたら、何か知らん、スーッと抜けるように、その苦しかったものがなくなったと言うておる。
今日私も、皆さんもお気付きだったかもしれんけども、ちょうどお祭りの始まる頃から、お楽の半ばまでもう、ほんとにきつかったです。もう練習、( ? )する時なんかは、もう、あまつのりとをあげるのにきついぐらいにあった。時々、私がこんなにあるんです。ね。そして、神様にそのことを、うー、お願いさして頂いておりましたら、★もう真っ赤な夕焼けを頂きます。
あれは、夏の夕焼けは、あー、あー、雨が降ると言われておりますね。あ、夏の夕焼け、えー、(?かわこしの)とかれましたですね。(?おお水が )帰られんぞ、と言うような、ところが、秋の夕焼けは、うんー、(?窯元にて)待っとけと言うほどしに、私、今日頂いておるのは、秋の夕映え、秋の夕焼けの様子であった。
ね、言うならば、ね、その、やはり、いよいよ収穫の前にはね、言うならばきついこともあるんだけれどもさ、ここを乗り越えて、初めて収穫のおかげが受けられるんだ。だから、一つのおかげの、まぁ約束としてですかね、そんな、ただ楽なことばーっかり、下り坂をじーっとこうして下るような( ? )ではいけない。ね、それが信心なんです。
ね、おかげを頂いて、お祭り半ばから、ずーっとこう、元気が出てまいりました。まぁ、あー、昨日の、( ? )ですけれどもね、おかげで、こうや、ここに立ってお話できるくらいにおかげを頂いた。だからもう、(?二日に)やれやれといったようなことではいかん。最近は、あー、とりわけ、火や水の行ではない、えー家業の行ということを、もう何と言うんですかね、よ、夜から昼になったような感じのご理解ばっかりです。
今までは、私はもちろん、えー、ここが、あー、こんなにおかげを頂きます前には、まぁそれこそ、あられぬ行もいろいろさしてもらいました。ですから、ここで修行する方達やらは、やっぱり一通りは、私がした修行をさしてもら、もらいたくなるんですね。
それで、ま断食をしたり、滝に水を頂いたり、様々な修行をしてるんですけれども、最近はそれを、私が、もう、あのう、そういう修行は止めれ、と言ってるんです。
先日から、私、あのー、あれは何て言うんでしょうかね、あのテレビで、うんー、あの、なんじゃろう、漫画本に、こんな力こぶのある人が、こう画面に出て来る、何とかライオンて言うですかね、あのー、コマーシャルでやってますよね。ね、それはね、例えば、そのー断食をしたり、火や水の行をするといったような修行はね、そん時一時は、パーっと信心ができたようになったり、力ができたようになるけれども、その修行を止めると、さらっと消えてしまうものだと。それは金光大神の、おー、信心ではないんだ。
けれども、やっぱりそれがほんとで、その一生懸命まぁやった時代も私もありますけれどもです、なら、あー、その後も、もう何十年になりましょうか、ね、こに二十年余りは、もうそういう( ? )人もない。
ね、火や水の行的なものではなくて、言うなら、家業の行に専念させる。だから、家行の行ということは、どういうことかというと、ただね、もう自分の仕事を一生懸命してさえおればよい、と言うことではないのです。
ね、自分の仕事がね、充実しておるということ。例えて言うと、一反なら一反の田んぼを持っておる人がです、ね、その一反の田に、草を生やさん。ね、肥料を施し、十分の収穫ができるように、一生懸命するんです。それを、まぁ一反なら一反しかできんのに、二反も三反も、こう広げてから、はぁあっちをしたり、こっちをもう忙しくて忙しくてこたえる。そして、こちらには草も生えとる、こちらはまーだ肥料を施すこともしとらん、と言ったような、ことで一生懸命なっというのじゃないです。
ね。最近ではここで修行する、なら私達もです、自分の頂いておる、あの修行も、この修行もと言うて、中途半端なことではいけない。それこそ、自分がこの修行を、という、ここだけはあんたの、言わば、場だというところをです、本気で充実したものにしていくということなんです。
ま、そういうことに、段々切り替えて、言うならば、なんと申しましょうかね、夏とかあつとか、あー夏とか冬とかの、寒いとか暑いとかっていう修行ではなくて、もう、いつも3月、春花の頃、といったような中にです、有り難い、有り難い、信心修行を続けさせて頂く、それが、言うならば、合楽モード、それが極楽モードを、自分の心の中に、ね、そんなに極楽というところにです、寒うしてこたえんと言うて、身体が凍えるような寒いところがあるはずがない。
ね、そりゃもう汗がぶるぶるで、もう蒸し暑うしてからどんこうされんと言ったようなところが、極楽にあるはずがない。
ね、例えばふんならね、このお広前に、この暑い、言うならば、夏蒸し暑い中に、ね、冷房が効いて、ね、寒くもなからなければ暑くもない。爽やかな雰囲気の中に、信心の修行をさしてもろうたと、御祈念をしたり、お話を頂いたりしておるような、言わばムードができてくる。そういうおかげが頂けれるということにです、今までは真っ暗かった、真っ暗かったから、自分がどうでも心に光りを頂かなければ、(?まえ)やっていけないという時代から、言うならば、夜の時代から昼の時代に移ってきたような感じがいたします。だからおかげがはっきり見えてくる。
ね、そういうおかげを、皆さんが頂かれてです、どういう頂いておると言うても、ピンからキリまでですけれども、そのピンからキリまでの中にもです、なるほど健康の上にもおかげを頂いておるなぁと、ね。思う感じではあるけれども、人生の上にも、おかげを頂いておる、お繰り合わせを頂いておる。
例えばね、そういうふうの、うんー、運動のない世界ということはね、どういうことかと言うと、億万の金を貯めておくということではないんです。という具合でもいいや、いや、それは金を借りておってもいいのです。貸し手があるなら。銀行からでもたくさん買っといていいです。けれどもそれをね、それこそ再起と申します。大いに積み立てれるようにです、いうのが地獄ですけれども、ね、買ってもろうて有り難い、未払いが、または、有り難く叶えていけるならば、それは、ね、貧乏のない世界に住んでおるとおんなしことです。
合楽でもそうです。もうたくさんの借金を持っておる。借金は持っておるけれも、借金というのが、一つも重荷でない。有り難ーく利払いも( ? )共に、払うていけれよるということがおかげなんです。
病気のない世界というても、なら親先生は糖尿病になっとるじゃないですか、と言うてもですね、その糖尿病を、私は糖尿病と思うていないということ。ね、糖尿病という名の神様のご都合だと思うておるという事は、もう病気じゃないということです。
ね、そりゃほんと言やー糖尿病になる、銀行からの借りも全部なくなってしまって、銀行には貯まっとると言う方がもっとおかげでしょうけれども、ね、けれども、私どもはね、今までは、例えば、もう石鹸のために、言うならば(?さいきん)責めたてられておったのですけれども、重みにならない有り難い借金さして頂いておるということがおかげだと。ね。
ある人が、お金のお繰り合わせを願った。そしたら、近所から来た人が、あの(?くんかんに)もう家んとば使うときなさい、ちから言うて、奥さんが喜んでからね、もうお繰り合わせを頂いた、と言うて喜びよったらお父さんが、次に行った人が返さにゃんとじゃろうもんて。そりゃ返さにゃんとこは間違いないよね。その辺のところをです、お繰り合わせをお願いしたら、金を貸してくれる人があったと言うて喜ぶ。喜んどきゃいいとでしょうが。それけん、お母さん側もおかげ頂いた、ち言いござったそうです。この心におかげがあるのです。
ところが主人のほうが、そればってんお前、返さにゃんの(?ま)に、何を只でくれるもんか。ね。だから皆さん、笑いよんなさるけれどもです、皆さんも同じようにです、今まで頂き足らんごと思うておることが、おかげを反し繁盛にしておるからおかげが育たんのです。
ね、例え買ってでも使うとかんのと言うて貸してくれる人があるということは、もう大変のお繰り合わせを頂いておるとしておるものです。そして、(?ゆうどう)しておらんという気持ちでおらなければいけません。
たとえ風邪をひいても、腹が痛かってもです、これは神様のご都合とこう思うて、ね、そこから改まりの信心をさしてもろう( ? )していきゃ、もうそりゃ病気じゃない、神様のご都合なんです。
今は和賀心じゃないと言うても、それひとっつも何も( ? )が少ないということじゃない。そら、やはり、(?いけのたいせつ)もあるけれども、そんなら親先生にお伺いしてから決めようというようなあり方は、まずは真善美というか、言うなら、合楽モードを(?物すでに)皆さんの家庭に現しておるんだということ。それがもっともっと、だから、ほんとなままに、ほんとなものになっていくことのためにです、ね、お互いが、ね、そのおかげを生かして行くところの働きになる。ね、現在頂いておるおかげを、ほんとにおかげと実感のできれる、ひとつ信心を頂いていかなければならない。
自分のところのおかげで、まだ、( ? )や専念をできるごとなるならばです、合楽でおかげを頂いておる、合楽でおかげを現しておる、合楽を見てもらえば、これが極楽だろうというような事実をです、皆さんが見てから、一つ合楽を見せて連れてこなければいけない。それ宣伝である。ね、そして信心するせんは、それから先は神様がさして下さるのである。
宣伝だけは、お互いが本気でね、さしてもろうて、いよいよ一月後に、来月の16日は、夏の大祈願祭である。ね。6月30日のお祭りは、守るお祭りと頂いた。ね、それは交通、ね、交通安全・悪疫予防、いわゆる守ってもらうという願いのお祭りであった。
今度の8月の16日は、今度は攻めるお祭り、ね。願うお祭り。諸事大繁盛、ね、五穀豊穣の祈願のお祭りである。これは願わないものはあるまい。諸事繁盛のおかげ願わぬものはあるまい。
ね、だから願うと致しましてもです、おかげはおかげと分からせてもろうて、お礼を申し上げるところはお礼を申し上げて、よりいよいよ、お祭りいただけて頂くことのために、諸事大繁盛を願わしてもらうというお祭りが、来月の16日である。
今、ただ今、一時の(?をきして)、ね、もうそれこそ、お広前がわれんばかりの夏期修行が、ね、( ? )信行が行われております。そういう例えばば、激しいまでの祈りをそのままに、私は来月の16日の夏の祈願祭に持ち込んでいきたい。
それを自分だけが持ち込んでいくとじゃない。せめて一人で十人に宣伝しとかにゃいけん。参る参らんは別。16日はこうだから、ほんとに大繁盛のおかげ、そしておかげの事実を話して、ね、するならば、諸事繁盛を願わないものは一人もあるまいと思いますから、ね、一人で十名なら十名のものを、ふんならば、連れてお参りのできるぐらいのです、宣伝をさして頂いてね、それこそ、このお広前がわれるような祈願祭にもならなければならんと今からお願いをしとるわけでございます。
ね、皆さんが、まだ頂き足らんごと思うておるところに、宣伝もでけんのです。ほんとに頂いておると、それこそ、あの苦しかった時代、あの時分のことを思うたら、それこそ昔の夢のようであるという実感から、現在頂いておるおかげの実感が、ね、いよいよ新たなものに、ね、瑞々しいお礼心となって、信心の修行に励みがつくのではないかと思うのでございます。
どうぞおかげを頂いて、ね、まずは、ほんとに自分の心の中に合楽を現し、自分の家庭に合楽を現していくということに、いよいよ本気にならして頂かなければならない。そして、言うならばです、もう無駄な死力、いや、神様がお喜び下さらんような苦しい修行はしてはならない。ね、断食をすること水をかかるとか、というようなことではなくて、もうどこででもお参りの修行でなからなけりゃいけない。どこまでも、教えを本気で充実していくところの修行に取り組まなければいけないということでございます。
どうぞ